自分で客観的に見ても、
ド〜ンと深いところで今もがいているので
きっと暗い内容(第三者から見れば愚痴でしょうし)であろうことを先に謝っておきます。
でも・・書いて(吐き出して)しまわないと
しばらく暗さが続きそうなので・・・。

私がこの太を産んで・・正確には身ごもってから
”つわり”の症状のように受け入れられなくなった
コトがある。
それは
■自分の母親■

思い起こせば、幼少期から言われ続けたコトが
今、母親になって「なんでそんなこと、子どもの私に言ったんだろう」と思うコトも思い出されて来て
もう何を言われても純粋に受け取れなくなっている
のかもしれない。

私はこの太の前に1人子どもを流産している。
このコトは私とダーちんと母しか知らない。
私は人に弱いところを見せるのが苦手だし、
いわゆる、”ケイリュウ流産”と言って
人に言えば「あ〜私もそうだったよ」と言う人に
何人かぶち当たるコトなのだから、
サラっと言えば良いのかも知れないけど、
私はへそ曲がりなので”傷の舐め合い”や
”ありきたりの慰め、励ましの言葉”を
受けるのが苦手だったし、なにより私たち夫婦に
とっては2人が初めて一緒に受けた傷だったので
誰にも触られたくもなかった。
そのことは母にも言った。

それから1年半が経ち、私はこの太を授かった。
大事にしたいと思った。
生まれ変わりだなどとは思ってなかったし、
この子はこの子として2番目に私たちのところへ
来てくれて、その生命力の強さを見せてくれた。
(途中で切迫流産も乗り越えてくれた)

妊娠中、母には悲観的な言葉をよく言われた。
出血したといえば、「ダメかもね」
「アンタは身体が弱いから、丈夫な子は産まれない」
「ダーちんの親戚には障害のある子が多いから
 アンタも心配」
などなど。
私は”つわり”の苦しさと、切迫流産の不安で
いっぱいの上、妊婦特有のブルーの中、
その言葉を聞き流すコトは出来なかった。
■どうしてそんなことを娘に言えるんだろう■

私は里帰りをせず、産む直前まで自分の家で過ごし
産んでからも自分の家に帰る決心をしていた。
親が居ない人なら当たり前だと思うが、
周りからみたら「なんで実家に帰らないの?」
と言われたが、
私はこの太を最初っからダーちんと二人で
関わって行きたかったし、
もう1つ母と1ヶ月近くウマくやっていく自信が
なかったからだ。

母には「なんで来ないの!」と言われたが
2人で頑張りたいコトを言うと
「じゃ〜お父さんはどうするのっ!?」
と怒られた。
「別にお母さんに来てくれとは言ってないよ。
 それにお母さんがそういうなら、私だって
 ダーちんをどうするの(ダーちんの方が
 昼帰って来るし、お父さんは夜も遅く晩ご飯も
 お母さんが寝てるから自分でよそったりして
 食べてる)って言いたいよ!」と反撃した。

結局、母には「2日泊まって1日帰る」という
手段で納得してもらった。
が、結局、それも合計6日泊まっただけに過ぎず、
その間も”8時には就寝”という自分の生活スタイルを変えるコトもなく、
私は退院後、すぐからこの太の洗濯や、
ダーちんの昼飯作りなどしていたし、
夜中の授乳も1人でやっていた。
あげくに「全然寝れなかったから頭痛い」
と1日不機嫌だったり、ソファに頭を押さえて
横たわってるだけだったりもした。

マタニティーブルーも一人前にやってきて、
「なんのために来てもらってるのか」
と涙を流した日もあった。

話は支離滅裂になりつつあるが、
↑に書いた私の流産話がこの太を産んでから
随分いろんなところで耳に入って来た。
「流産乗り越えての出産だったんだってね」
「流産したことある人は安産なんだよ」
すべて、母の関係の人だった。

ある日、母の友人が
「お母さんは口が堅いんだよ。
 この太(この場合私)ちゃんが妊娠したこと
 ずっと黙ってたんだから」
と言った。
すると母はこう言った。
「そうだよ。だって、変な子産まれてきたら
 困るしょ。言えないしょ。そんなこと」
と。
母は私が出産後、入院してる時にもそのコトを
言っていた。
「障害のある子なんか産まれたら困るから
 誰にも言わなかったの。言ったらやだったしょ?」と。
■なにが、クチが固いだ。流産のこと、
 ぺらぺらと話したクセに。
 それに、もしこの太に障害があったら、
 この太が産まれたことすら隠したと言うのか?■
と思った。

この太は吸うチカラが弱かったのと
私の乳首の形が悪かったのか(扁平ではないんだけど)最初、おっぱいが直吸い出来なかった。
なので、私は必死に搾乳してこの太に
おっぱいをあげていた。
でも、吸われないおっぱいはだんだん出なくなると
言われていたので、懲りずに機嫌のいいときは
続けていた。(3ヶ月までは諦めなくても
大丈夫とも言われたし)
なのに、母は搾乳してる私に向かって
「アンタ、おっぱい止まるね」
と言った。
私は
■その言葉で止まりそう■
と思った。

この太の肌の白いのを見ては
「白いから、身体弱いわ・・この子」
と言われたこともあったな。

北海道の冬は厳しいので
まだ3月くらいまではこの太を外に連れ出すのは
忍びなくって、私は買い物の時は
母に預かってもらうことにした。
母も”最初”は快く預かってくれるようになったが、1度大泣きをされたのを機会に
拒否されるようになった。

■もういい。■
と思った。
そう。最初っからアテにする気なんかなかったじゃないか。
産後だってそうしてきたんじゃなかったのか。
私はそれから預けるのを辞めた。
本当にダーちんと2人で頑張って行かなくちゃ
いけないんだと再認識した。

今日、こんなことを書いているのは
夕方、母から電話で
自分から疎遠になった友人からこの太への
お祝いを頂いたという話だったのだが、
「何考えて今更もって来てるんだかっ!」って
怒ってるし、
その人の子どもも2月に子どもが産まれたらしくって、そのお祝いをそのまま「お互いお返しなしで」
って返したいっ!って話だった。
なんだか、訳のわからん話だった。

私があまりいい反応じゃなかったので
(だって、せっかく遅くなったってこの太へって
くれた善意をそんな風に言うなんて・・・)
逆切れして電話を切られた。

それ以降、ドップリまた過去の母の言葉&行動が
走馬燈のように回って私は最悪にブルーなのだ。

普通、姑の言葉や行動に愚痴る人が多いのだろうが、それは生活習慣や生活環境が違うんだから
当たり前だと思う。
所詮”他人”なんだから。
でも、実母にこんなに嫌悪感を抱く私って
おかしいのかな。
でも、自分が母親になって、
■あ〜私がこういう風になったのって
 母の言葉の暗示にもあるなぁ〜■
と思うこと大なのである。

それにね。姑の話って言いやすいだろうけど
(「そうそう!」とか「うちなんかもっと!」
とか多いよね)
実母の話なんて、「うちの母にだけはなついてるよ〜」とか言ってるママ友さんにゃ〜愚痴れんがな・・・。(というか、やっぱりへそ曲がりの私は
愚痴すら言えないのである)
なので、ダーちんだけが唯一、私のこの心の叫びを
聞いてくれているんだけど、
今日はど〜にもココで吐き出さないと
ダメダメな精神状態だったんで、
思いっきり、読み返すコトもなく、
そして、文脈もなにも考えず、打って打って打ちまくってしまいました。
おしまいっっっっっっっっっ!

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